1
課題を最後まで目を通したとき、私は怒りで震えていた。
「そうか……そういうことだったのか……」
最後に記されていた一文で私は今置かれている状況をすべて察知した。
――P.S. 冷蔵庫の中には箱買いしたドクター・ペッパーが入っている。必要に応じて飲んでもよい。――
「やれやれ。今年もこの季節が来てしまったものだな……」私はそう呟き冷蔵庫からドクター・ペッパーを取り出し、そして開ける。
部屋の中にプシューッと炭酸の音が鳴り響く。そして飲み干す。
疲れた五臓六腑に炭酸が染み渡る。やはりドクター・ペッパーこそが人類が生み出した叡智の結晶である。私は改めて思い返した。
しかし、この状況に対して私は強い怒りを覚える。
というのも私は過去に似たような状況を三度経験しているからだ。
そして私自身、何故自分がこの状況に立っているのかそれを十分理解している。この状況を作り出したのは元を辿れば私が原因だからだ。
ドクター・ペッパーを飲みつつ筆を執る。それはここ数年私にとって夏の風物詩となりつつある行為であった。
私は毎年夏の終わりが近付くと苛立ちを覚える出来事があった。
夏の終わり、もっと言えば8月の最後の週。テレビにおいて24時間のチャリティー番組が放送される。
元々は「寝たきりの老人に風呂を、身体障害者に車いすを」といった明確なテーマを持った番組だったのだが、平成の始まり頃からマンネリ化が囁かれ、現在のように芸能人が2日間かけてマラソンを走ったり、歌を歌ったりといったものがメインとなり始めた。そして愛だの絆だの想いだのとテーマも抽象化し始め、いつしか「24時間テレビはお涙頂戴の番組だ」と言われるようになってしまった。
そしてこうした意見に対して障害者側の立場として意見を出したのが、NHKEテレにて放送されているバリバラだった。
今から6年前の2016年、番組内にて「障害者×感動」と題して、障害者を感動のネタにするという事について24時間テレビの裏で生放送を行っていた。
そしてその番組内でステラ・ヤング氏がTEDにて提唱した「感動ポルノ」が紹介された。感動ポルノとは障害者や社会的弱者が苦難を乗り越える姿を感動を呼び起こすかのように描いたものを呼ぶもので24時間テレビ自体まさしくそうだと言わんばかりに、バリバラでは日本の障害者ドキュメンタリーの実例を感動ポルノであると紹介して見せた。
実際この生放送はネット上で大きな話題を呼んだ。24時間テレビが嫌いな人が多いネット民がこの放送回のバリバラを見て「NHKは攻めている」などと述べ、称賛の声があがったのだ。
しかしこのバリバラ、何故こうしたことができたのかと言われるとそれは当時レギュラー放送の時間帯が日曜の19時だったからである。
24時間テレビがフィナーレへと向かうこの時間、通常回とは別に生放送として放送し、そこで福祉番組という殴られない特権を利用しこうした番組を放送したのである。
実際その回では次週の予告もしており、この番組がある種裏番組的なカウンターで作られたものではないということは私自身理解していた。
しかし、これで味をしめたのかこの放送以来毎年夏になると24時間テレビに対抗して生放送の特番を放送するようになった。今年で6年目である。
しかし、こう毎年毎年夏の終わりにこうしたカウンターをやってはそれが意味を成しているのだろうかというと実際ほとんど効果はないと私は思っている。
何故ならほとんどの人は実際障害者やマイノリティの事なんかこの夏の終わりの2日間にしか考えないからだ。
現にこうして外星人に拉致され、文章を書いている私自身「やれやれ、また同じことの繰り返しだ。」と思っている。そして怒りを露わにしている。
私は過去数回この夏の終わりをネタにしては問題提起を行っている。「君たちは障害者やマイノリティの事なんかそんなに考えてはいないのではないか?」とか「そもそもバリバラがレギュラー番組であることを知っているか?」などだ。
それから私は毎年のようにブログでネタにし、昨年は放送時間中に「これってどうなの?」みたいなところをみんなで考えていこうということで初めてスペースの配信を行った。
しかし私個人の力ではどうしようもできない。毎年同じことの繰り返しのように思えるからだ。それこそ昨年のスペース参加者0人という結果も物語っているし、現状バリバラやハートネットTVといった福祉番組というのは障害当事者または福祉の関係者を始めとしていわばマイノリティとかかわりを持つ人間またはマイノリティに興味関心を持つ人間しか見ていないと思われるからである。
そしてそうではない人達というのはこの時期しか障害者やマイノリティについて語ろうとしない。
言ってしまえば夏の終わりというのは良くも悪くも障害者やマイノリティが異様に注目される謎の2日間となってしまったのだ。そしてこれは6年経っても変わりはしない。
今年もドクター・ペッパーを片手に文章を書かされている現在の状況を鑑みれば「ああ、今年もこの季節か。」と頭を抱えても仕方がない。
そこで私はもうこの話題には触れないつもりでいた。正直私がこの件について触れたところで世界は変わらないし、毎年毎年夏の終わりが訪れればテレビが嫌いな馬鹿みたいなネット民は「24時間テレビは障害者の感動ポルノ」だと騒ぎ、NHKの福祉番組を持ち上げたがる。
そしてそうしたネット民が夏が過ぎれば語源もわからずにアスペだのガイジだのチー牛だのといった蔑称を用いることがある。こうした状況を見るたびに「君たちは本当にマイノリティに対して理解があるのだろうか?」と私は考えてしまう。
しかし、今こうして外星人と呼ばれる人達に拉致され、今年も書かざるをえない状況になっている。
私は元々書いていた原稿用紙を丸めて投げ捨て、机に向けてペンを強く投げつけた。
(私が何か意見を書こうが毎年同じだ。私一人の力じゃどうしようもならない。ましてやフォロワー3000人いるのにスペースに参加する人がほとんどいない人間が何か意見を述べたところで聞いてくれる人なんて誰もいない。)私はその思いを物に当てた。
私が怒りをぶつけるやいなや、外星人は私に対して強く警告してきた。
「何をしているのだpira。何か不満があるのか?」
「いや別に。なんにも。」私は少し不満げな表情で答える。
「そうか。ならいい。課題に取り組め。そうしなきゃこの部屋からは出れないぞ。」
外星人からの強い警告を受け、私は再び課題に取り掛かることにした。
とりあえず、課題が示す夏の風物詩が何かということは理解した。
「しかし、何かしら書かなければこの部屋からは出られないんだよな。」私は改めて筆を執る。
怒りが脳を支配しており、まともに文章が出てこない。
(やはり私が書いても無駄なのだ……世界は変わらないのだ……)
私はまず怒りを落ち着かせることにした。
2
数時間が経って、落ち着いてきた私の頭にアイデアが思い浮かんできた。
「今年は置かれている状況を基に小説にしよう。」
「そして、自分はもう発達障害の人間では無くなりつつあるのだから今年で最後になってほしい。もう私はこの件について考えたくはない。」
そう思った私は今年の夏の終わりの制作に取り掛かり始めた。
まずタイトルは「シン・夏の終わり」とすることにした。
これは私自身普通の人間の立場と発達障害者の立場、その狭間で翻弄されている状態であること、そして今後の人生を鑑みた際に発達障害の人間では無くなりつつあること、そして今年で夏の終わりについて大きく語るのは最後にしよう(これは願望だが)と思ったからだ。
そしてこの状況、どこか最近見たあの映画と似ている。
おそらくこの状況を作り出した私のスタッフさんもパロディであることを理解して拉致したのだと思う。今頃は偽物の私がSNS上で暴れまわっていることなのだろう。多分。
そして書き始めること数分私は悩んだ。
「小説ってどうやって書けばいいんだ……?」
私はかつて小説を書こうとしたことがある。
とはいうものはそれは子供が自分の妄想を紙に書くようなもので、今振り返れば恥ずかしい文章であった。
そのぐらい私は小説の文章の書き方を知らない。こんな風でいいのだろうかと悩みつつ、小説投稿サイトにおける1話の文字数を調べたりしていた。
「1話に5000文字!?そんな文章量書けるわけないよ!」私は頭を抱えた。
5000文字――それは私がブログの記事一つにかける文字量のおよそ2倍であった。
悩みながらも私は書き始めた。
「やはり小説って、書き出しは大事だよな」
そう思った私はまず書き出しを考えることから始めた。
(えーと、「今は夏。青年はそれを……」ってのはあれだから駄目だとして、夏の風物詩の訪れを感じさせるような内容が良いよな……)
そう思っていると私は今年の6月はものすごく暑く、夏はすでに訪れているのかとかいう錯覚を覚えたのを思い返した。
そしてこの暑さはいよいよ来るであろう晩夏の訪れにも近い。
そしてできた書き出しがこうだ。
「それは、暦ではまだ6月だというのに、晩夏の訪れを感じさせるかのような酷く暑いある日の出来事であった―― 」
書き出しが書き終わるとあとは雰囲気で書き進めていく。
しかしどうしても文字数の問題が解決できない。1話5000文字というのは到底きつい数字でもあった。
そして私は自分が何故1つの記事の文字数を3000文字程度に抑えているかを考え直した。
それは「長い文章は読まれないから」である。
この忙しい現代社会。時間というものは有意義に使いたいものである。ドラマや映画を倍速で視聴する人がいるという話もよく聞く。
そんな時代に5000文字の文章など読まれるのだろうか?きっと流し見されるであろう。
実際小説投稿サイトの1話の文字量も最近では2000~3000文字程度が良いとも聞く。
まずはそのぐらいの文字量を目指してみよう。
そして私はついに書き終えたのであった。
「終わったぞ。」私は筆を置き、天井に向けて話した。
「そうか、では君の答えをきかせてもらおうか。」
「まず先に言っておくが、これは君たちの望む答えではないかもしれない。」
「そして、私は君たちにききたい。君たちは外星人ではないな?」
私がそういうと外星人は困りつつも真実を伝えた。
「よく分かったなpira。確かに私たちは外星人ではない。」
つづく。