なぜ「俳優になれるのは心身ともに健康な人だけ」なのか。改めて考えてみる。

piraです。

スキルヴィングの死から1週間以上が経ち、なんとか立ち直ったわけなのですが

やろうかどうか悩んでいた安田記念を当て、軽く調子に乗ってnoteを書き

そして本ブログの更新をどうしようかなーと悩んでいたところです。

さて、今回のテーマはですね。以前私がバリバラで放送されたこの企画に対して難癖つけてた件について、改めて深く考えていこうかなと思います。

ちょうど実写版リトルマーメイドが公開されたこともあり、反ポリコレ派(と言われているらしい)に近い私自身が今どう思っているのか語っていければと。

心身ともに健康な人とは

そもそも心身ともに健康な人ってなんだろうと思った時、頭の中に思い浮かぶのは健常な方。五体が満足に動く。

そういった人を指すのであれば障害を持つ人というのは俳優の募集要項からは除外されていると考えてもいいでしょう。

こうした募集に対して人種や身体的特徴から制限をかけることはそういったマイノリティへの雇用機会を無くすとか差別的であると当事者であれば感じることでしょう。

実際、マイノリティの側だって俳優になりたいと思っているけれどその門が閉ざされていれば諦めざるを得なくなる。その結果限られた職種しか選択できなくなる。

しかし、それでも心身ともに健康な人を俳優として募集したいと考えるのはおそらく「配役としての健常者を求めているから」だと思います。

配役にはリアルが求められる

配役としての健常者を求める。そのためには俳優自身のリアル、すなわち本物の演技を彼らは求めているわけです。

障害者の俳優養成の企画においても監督側は「障害者のリアルを出してほしい」ということを演者に要求していたと思います。

実際、車いすから降りて演技をしたら「なぜ車いすから降りたのか」という疑問を持ち出したりもしていましたし

そこに、障害者というリアルが失われていたのでしょう。

そうして考えてみると、ドラマの主演などを演じるのは心身ともに健康な人ばかりだという疑問に対しておかしいというのは違う気がします。

しかし、その一方で障害を題材にしたドラマというものが作られるわけで

そこに出る人というのも心身ともに健康な俳優が多いですよね。(今なんか福山雅治全盲の捜査官をやっているみたいですし)

そうしたものに対して「障害者を使わないのは偽物の演技だ!」などと思うマイノリティの人もいるわけなのですがその意見はあってもいいです。

それこそ俳優にはリアルが求めると先ほど言ったのですが、演技の質というのも絡んでくると思います。

私がこの企画を見たときに思ったことなんですけれど障害者の演技って俳優の演技に比べると見劣りすると感じたんですよね。

神戸塾の俳優養成企画の最初の方なんかは「これこそ感動ポルノじゃん」とか思ったし、「全員採用に至ったまでの経緯とかが不自然すぎる」と思ったんです。

その直後に同じ放送局の朝ドラの監督の方が出演して批判したらマイノリティが反ポリコレ思想を語るんじゃないとか言われてしまって・・・

もちろん障害者役は当事者がやるのがリアリティがあるとは思うのですが、現状障害者の演技の質って心身ともに健康な俳優の方と同じ土俵で戦っていける気はしないんですよね。正直見ていて。

これは俳優に限らず障害者のお笑いに関しても言えるんですけど、障害者のお笑いって自虐ネタが多いようなイメージがあります。寝た切り芸人のあそどっぐとかまさにそうですし、R-1とった濱田祐太郎の漫談もそう。

たまには車いすに乗った人が障害とか関係なしに真っ直ぐ漫才をやってほしいと思うところではあったりします。

さいごに

さいごになりますが、私はマイノリティの方が社会にどんどん活躍していく場が増えることを強く望んでいます。

ぶっちゃけアリエルを黒人がやろうとそれが黒人じゃなきゃダメだとかじゃなくて、今回のアリエル演技良いよねみたいな感じだったらすんなり受け入れてしまいそうですね。(実際予告見た感じはよかった)

結局は俳優の世界ってマイノリティだろうとなかろうと能力が評価される世界だと私は思っています。

マイノリティの人達が「心身ともに健康な人だけ」と叫び、機会の場を広げるのはいいんですけれど、彼らを評価するのは自分ではないということは意識した方がいいかと。